「人の話に集中できない子」

    

 まなび場で、私が説明したいことを話し終えないうちに次々と質問してくる中学生がいた。例えば、レンズの焦点について説明し始めた途端、「レンズを2つ並べたらどうなるの?」と口をはさんでくる。あるいは、水面で光がどのように屈折するかを説明する際に、水中で光速度が遅いこととの関係にちょっと触れると、すかさず「なんで水の中で光は遅くなるの?」と聞いてくる。それは面白い質問だ。しかし、まずこちらをきちんと理解してからね、と教える側としては言いたい面もある。しかし、疑問がわいた以上、彼は人の説明を我慢して聞いていられなくなる。今、興味が生き生きと湧きおこっているのだ。そこで、当初の説明のプランは捨てて、彼の質問にそって考えていくという展開になる。私が即答できないことはその場でいっしょにインターネット等で調べていけばよい。私自身にも刺激になるし、彼がどんどん質問している雰囲気を面白がって理科にあまり興味を持っていない他の子が理科の学習の輪に入ってくることもあった。

   「学校の授業はわからない」と彼はいう。疑問を持ってそのことを考えているうちに「どんどん進んでしまっている」と。ふと浮かんだ疑問をとりあえずわきにおいて おくという器用さを持ち合わせていないので、教師のペースで一方的に進められる授業には全くついていけない。授業の初めにわいた疑問にずっとひっかかっていて、それ以後の説明など聞いていないのである。外から見ると、教師の話を聞かずにぼーっと座っている「集中力のない生徒」ということになる。本当は、自分の考えに集中しているのだが。

 ものごとを体系的に理解するためには、基礎から階段を一歩ずつ上っていくように根気よく学ぶことも大切である。教科書はそのように作られている。しかし、教科書の順序で勉強すれば体系的に理解できるというわけでもない。興味を持てない内容を機械的に勉強しても、バラバラな知識を覚えているだけで自分の中で体系的につながりあったものにはならないかもしれない。そもそも、興味を持てないままでは、学習を継続する意欲を持てず途中放棄してしまう子どもいるだろう。順序にこだわらず、興味を持ったことを出発点に人と対話しながら考えていくことの方が、遠回りのようでも着実に理解も学ぶ意欲も深まっていくものだ。「人の話に集中できない子」に無理矢理人の話を聞かせるよりも(人数が多い教室では彼らに我慢してもらわねばならない面もあるわけだが)、教える側が彼らの思考につきあっていく方が実りがある、と私には思える。

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