自分らしいあり方

 10年前の夏、姉の夫のDさんがガンで亡くなった。

 末期ガンだとわかってからも、姉夫婦はそのことをまわりの人間には特に知らせず、それまでの生活スタイルをなるべく変えずに生活してきた。
「『なんで言ってくれんかったん。死ぬ前に会っておきたかった』という人もいたわ。でも、本当に会いたいのなら、病気でなくても来ればいいんだから」と、葬儀の後で姉は僕に言った。Dさんは、死が近いという理由で特別扱いされることをきらい、自然体で最後まで生きようとしたのだ。
「人は、死ぬまでは生きているんだから」と姉は笑った。

 末期ガン患者を取材したルポを僕は読んだことがある。

 ある日突然“余命数ヶ月”と宣告されたら、冷静に受け止めることは難しい。だが、死の宣告を受けることによって、生きている間に自分が本当にやりたいことをやっておきたい、という強い気持ちに突き動かされる人達がいる。この人達は、仕事に追われるだけの生活に見切りをつけ、若いころに抱いたけれどあきらめていた夢に、残された時間をかけようと決意する。人生の最後を完全燃焼させようとする人達のルポは感動的だった。…のではあるのだが、この人達はなぜ、ガンを告知されるまで、夢を棚上げしてきたのだろうか。失敗を恐れて、無難な道を選んでしまったのか。あるいは、まわりの期待に応えることに追われて、“自分が本当は何をやりたいのか”をつきつめられなかったのか。

 Dさんは、余命が短いと知って生活を変えることはしなかった。彼は若い頃から自分のやりたいことをずっと追求してきた人だったのだ。

「彼は、死がそう遠い先でないとわかっても、すごく落ち込むとか荒れるとかいうことはなかったよ」
「Dさんが自分の死を自然に受容できたのは、自分で納得できる生き方をしてきたからだろうね。僕なら、そんな風に受け入れられないと思う」
「彼も自分の生き方に迷いはあったよ。でも、『こうやって迷い続けるのが人間なんや』と言ってたわ」
 Dさんの人柄を思い浮かべながら、僕は姉の言葉を聞いていた。

 翌年の年度末、僕は17年間勤めてきた学校を辞めた。学校での教育のあり方にも、また、学校の中で自分らしいスタイルを貫ききれない自分のあり方にも、納得がいかなくなっていたのである。

 自信がなくて、やりたいことを探すエネルギーが持てない人もいる。人からの評価を気にし過ぎて、自分にはあっていないことを追い求めている人もいる。若い人には“自分らしいあり方”をみつけていって欲しいし、“まなび場”がそのような場であることを僕は願っている。

<2010年3月「びば!まなびば 2010春号」>

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