君の手がゆがんでいる

 子どもが大人から学べることは何なのか。僕の高校時代の教師を思い返しながら、考えてみたい。

 美術教師は、あくの強い人物だった。
 「君らは、何をぼけーっとしてるのか。もっと本を読みなさい。150円あれば岩波文庫が買える」「美術館に行きたまえ」などと、苦虫をかみつぶしたような表情で説教してくるのだ。
 ある授業で、僕は人間の頭部の彫刻(といっても、発砲スチロール状の素材からカッターで形を切り出していくもの)に取り組んでいたのだが、どうしても形がいびつになってしまう。すると、この教師が僕の横にやってきて、「目で見たままの形を作るだけ!こんな形になるのは、君の手がゆがんでいるんだ!」と、あきれたように言ってくるのだった。僕の周りの席の連中は、また頑固オヤジの毒舌が始まったかという風にクスクス笑っていた。でも、僕はこのとき、「あ!そうなんだ!」と、何かが腑に落ちたのだった。「ごちゃごちゃと頭の中でこねくりまわすから、形がゆがむのか。見えた通りに手を動かせばよいだけなのだ」と。そして、そのことを意識して制作していくと、納得のゆく形が切り出していけるのだった。後日、完成した作品を美術準備室に持っていくと、この教師は、「できましたね」と言ってニヤリと笑みを浮かべるのだった。

 国語の教師は、テン(、)とマル(。)にこだわっていた。
 教科書の文について、どうしてここにテンがあるか(テンが別の場所にあると意味がどう変るか)、どうしてここにマルがあるか(文を区切る位置によって文はどう変るか)、という話を滔々(とうとう)とするのだ。細かいことにこだわって小難しい説明をするその教師の授業に多くの生徒はうんざりしていた。しかし、僕にはこの教師の授業が新鮮だった。そして、今までほとんど意識していなかったテンやマルの位置について、突然、はっきりと意識するようになった。今でも、この教師が黒板に文を書きながら、テンの位置について真剣に語っている光景がはっきりと思い返される。

 倫理社会の教師は、アルバイトの大学院生だった。
教科書には何十名もの思想家達の解説が載っていたはずだが、この教師は、1年間かけて2人の思想家の話しかしなかった。この教師自身が最も関心を持っていることだけを授業の題材にしたのだろう。分かりやすい説明というわけでもなかったのだが、この授業で僕は倫理社会への興味が深まったと思う。友人と2人でこの教師の下宿に遊びにでかけると、彼はカーデガンをはおり、パイプをくゆらしながらコーヒーをいれていたっけ。

 教える立場の人間は、様々なことを期待される。それは、わかりやすく教えること、子どもにきちんと勉強させること、あるいは、質問に答えてくれることだったりするだろう。僕は、教える立場の人間に最も求められるのは、相手に刺激を与えることではないかと思っている。自分自身が深く興味を持っていなければ、相手に刺激を与えることはできない。だから、いろいろな事に興味を持つことを大切にしたい、と考えている。

<2013年9月「びば!まなびば 2013秋号」>

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