子どもの「今」

 まなび場の子ども達と公園にでかけると、様々な人に出会う。近所の保育園の園児達は、保育士といっしょに走り回ったり、はしゃいだりしている。そんな中、少し雰囲気の違う園児達と遭遇することがある。園児達は日本人のようだが、引率の若い欧米人は英語で語りかけている。園児達が日本語をしゃべっている様子はなく、彼らから時折聞こえてくるのは限られた英単語だけである。近頃人気のバイリンガル保育園の園児達なのだ。このようにして、英語漬けの生活を送ることで、バイリンガルに育てようということのようだ。私は、子ども達の雰囲気にどこかぎこちないものを感じて、ちょっと気になったのだった。
 最近、バイリンガル保育園についての特集記事が新聞に載っていた。そこでは、幼児期の外国語習得が将来の役に立つという意見と、日本語の発達が不十分になることを危惧する意見とが併記されていた。子どもの言語能力の発達についての議論も大切だろう。しかし、もっぱら子どもの将来という観点から保育が論じられていること自体に私は違和感を覚えた。子ども達が今を生き生きと生きているのかというこそが問題なのではないのか。なぜ、今を飛び越して、将来の心配ばかりするのだろうか。

   話はがらりと変わる。まなび場で、ある子が自己中心的な行動を繰り返していた時期があった。まわりから批判されても怒ってしまうだけだった。この子のことについて話し合ってみると、「あの子は今のままでいいってみんなが思わんと、変らんわ」「あの子は、かつての俺といっしょ」とつぶやく若者がいた。こういうメンバー達におおらかに受け止められる中で、この後、その子の行動は変化していったのである。
 今のままでいいと思うことと、変化を信じることと。この矛盾は、どのようにとらえればよいのだろうか。「今のままでいい」というのは、本当は今のままではダメだと思っているのだけど、方便としてそのように思おうとするということではない。また、相手を突き放して関係を断ってしまうことでもない。そうではなく、相手をダメと思う自分の気持ちをいったん置いて、「今」の相手の内面を理解しようとする態度なのではなかろうか。そして、今の自分を受け止められたと感じたときに、人は自分を変えるエネルギーを得るのだろう。

 子どもの将来を過剰に心配するということは、子どもに潜在する力を信用していないということでもある。そして、大人が子どもの力を信じていなければ、子ども自身も自分の中に力があることを確信できないだろう。自らの将来を切り開いていく力を育てていくためにも、子どもの「今」が尊重されるべきだと思うのである。  

  <2013.11「ACNC News Letter vol.29」(あいち・子どもNPOセンター発行)一部加筆>

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