「対話」を通じて、その人なりの「まなび」を

「学校」で行なわれている教科教育は、多数の人間に対して効率的に、平均的な知識や常識やマナーを伝えようとしている、といえるでしょう。社会に適応し社会を再生産していくのに必要な「人材」を大量に生産していく制度という面が、「学校」にはつきまとっているわけです。そこでは、あらかじめ決められた学習内容に個々人が接近していくことが「勉強」です。
『まなび場』では、何をどのように学ぶかをあらかじめ具体的に提示していません。一人ひとりの人間が、その人なりの方法で自己や他者や自然や社会と出会っていくことを「まなび」と考えているからです。そして、個性を大切にした「まなび」は、結果として、人間を大切にする社会をつくっていくことにつながるはずです。

私たちが深く考えたいと強く感じるのは、「つながり」が見えかかったときではないでしょうか。こんな時は、まだモヤモヤしている中で考え続けることがしんどくなる時であったりもしますが、ここを乗り越えたいという意欲もわいてきます。一方、知識だけ集めても、それらがつながって見えてこなければ、虚しく感ずるものです。「まなび」とは、その人の中で、様々なことがらを網の目のようにつなぎあわせていく過程でもあるでしょう。水蒸気があっても核になる物質がなければ雲にはならないのと同じで、「まなび」にも核のようなものが必要です。ここで核となるのは、その人にとって考えることに価値が感じられる領域のようなものかもしれません。あるいは、その人なりの見方・考え方かもしれません。

「まなびの核」を育てていくためには、自分の考えていることや感じていることを吟味しようとする作業が必要です。これは「対話」によって可能になります。一対一の話し会い、数人でのディスカッションなど、対話の形態は様々です。対話しようと構えて向かいあわなくても、何かにいっしょに取り組む中で、あるいは同じ場所にいるだけで、自然に生まれる対話もあります。ここで、自分自身の問題意識へのこだわりを持つとともに、相手の個性を理解し共に考える姿勢を持つ、大人(スタッフ)の存在が大きな役割を果たすはずです。

『まなび場』で具体的に取り組む内容は人それぞれです。数学や英語を自分が興味を持てる方法で学習する、関心ある分野について探究する、環境や社会問題について議論する、あるいは、自分について考えるということかもしれません。共通しているのは、その人にとって「つながり」が感じられ意味を実感できる「まなび」をみつけていくこと、そして、土台に「対話」があることなのです。

(2002.12.9)

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