2000.2.27 授業改革フェスティバル・レポート
数学指導における「総合学習」的視点
「つながり」を意識して指導する
個々の知識がバラバラで関連が見えないとき、学ぶこと自体が虚しく感じられる。これは数学に限ったことではなく、対象が何であれ、もっと深く考えたいという意欲がわくのは「つながり」が見えかかったときではないか。個々の単元内容が統合的に理解・納得できたり、全く異なる分野(他の単元、他の教科、あるいは現実場面)のことがらと深い所でつながって見えたとき、学ぶことの面白さや価値を実感できる。
教科書では、教科・科目・単元とバラバラに分解したうえ、各単元内容も「分析的」に説明されており、根底を流れるstoryは見えにくい。「今勉強していることの意味は、もっと先まで進めばわかる」などとごまかすのではなく、意識的に「つながり」や関連や意味について語ることが我々教師に求められているのではないか。
さらに、外から教わるだけではなく、自分自身の頭を使って事柄をつなげていくという主体的な作業がなされなければ、「つながり」は本当には見えてこない。ここが一番むずかしい課題である。
このような視点から授業でこころがけていることについて、振り返ってみたい。
どんなstoryがあるだろうか
関数はまずはx→y対応として指導するので、直線の傾きなどという形でそれとなく「変化の様子」は扱ってきても、「変化の様子」自体を意識的に真正面から取り上げるのは数列漸化式あたりだろう。変化に注目するという発想から、証明においても数学的帰納法が生まれる。関数も、xが変化するのにともなってyがどのように変化するかという動的な視点で捉え直され、それが微分へとつながっていく。
このように、単元の分け方とは異なる視点から対象をとらえなおし、表面的には無関係のようにも見える事柄をつなぐstoryを語ることが大切だと思う。
ビジュアルなイメージを
y=sinθのグラフは、一次元の運動である単振動を二次元に広げてやることで視覚的にとらえやすくしたものといえる。単振動を横にずらしていくパラパラマンガ(教材1。横軸は角度であるが、本質的には時間軸と考えられる)でこれが把握できる。さらに、各位置で位相をずらして単振動させるパラパラマンガ(教材2。横軸は位置)で波が空間を伝わっていく様子もわかる(逆に、波が伝わっていくとき、各点は単振動しているだけであることもわかる)。放物運動では、水平方向は等速運動なので、横軸が時間でも位置でも全く同じ動きとなる。
視覚的にとらえられる対象にたいしては想像力がかきたてられるので、言葉や式だけの説明よりも「つながり」が見えてくる。
他教科とのつながり
関数の話は物理の話とつながってくる。これは別に脱線しているわけではなく、本質的につながっているものが便宜的に「数学」と「物理学」に分けられているだけだろう。これは数学と自然科学に限ったことではなく、あらゆる学問にはつながりがあるのではないか。高校で扱う近代数学を生み出したデカルト、パスカル、ライプニッツ、ニュートンらが狭い「数学」だけを研究したのではない、ということも示唆的である。
数学史について
パスカルが賭博師メレやフェルマとの対話を通じて期待値を発見する過程は興味深い。さらに、「幾何学について率直に申しますと、わたしはこれを精神の最高の訓練とみなしておりますが、また同時に、これほど無益なものはないこともよく承知しておりますので、単なる幾何学者にすぎない者は、熟練した職人とそんなに違いがないと思っております」(晩年のパスカルからフェルマへの書簡)などといいう言葉を読むと、何となく笑えるし、親近感が持てる。こういう話に目を輝かせる生徒が必ずいるものである。
機会あるごとに数学史の話にふれるようにしている。
現実世界とのつながり
地球温暖化のデータを使った授業(小寺隆幸氏の実践による)をおこなってみたが、数学が現実場面でどのように利用されているのかを生徒は実感できたように思う。
生徒が参加する授業
「中身の見えない三つの箱があり、そのうち一つだけに賞金が入っている。出場者は好きな箱を一つ選ぶ。箱を選んだ後で司会者が残り2つの箱をこっそり覗き、そのうち一つの箱を開けて空であることを示した上で、今なら選ぶ箱を変えてもよいですという。さて、箱を選び直すべきか否か」
「3勝で上がりのゲームがある。Aが2勝Bが1勝した時点でゲームを中断したとき、掛け金はどのように分配するのが公平か」
これらの論題は、生徒も興味を持つし議論を通じて本質にせまれるので、討論授業に打って付けである。
生徒参加の工夫としては、討論の他、ハノイの塔、一筆書き、多面体づくりなど、時間をたっぷりかけて試行錯誤する授業をたまに行なっている。日常的には、生徒による問題解法の解説に取り組ませているが、生徒の説明も徐々に要領をえてきたし、他の生徒も質問や発言など参加しやすい柔らかい雰囲気がつくられてきた。また、単元の区切りでは、プリント学習(生徒が自分のペースで学習できるように、基本的な計算から応用まで広く取り上げ、詳解も付ける)に取り組ませることで、教師に質問したり生徒同士で教えあう雰囲気もできる。
全体としては教科書にそった「教える」授業であり、部分的に様々な試みを行なっているだけの状況である。生徒が主体的にものごとを探究する力を育てるには、もっと思いきったことが必要かもしれない。
教師-生徒関係
教師が教えて生徒は教えられるという一方通行的な関係を変えていくためにも、教師と生徒が人間としては対等な関係でなくてはならない。頭髪や服装の規制も問題だが、生徒には「○○先生」と最大級の敬称をつけさせておきながら、教師は生徒を呼び捨てにするというのもどんなものか。僕は生徒に対しては「○○君」と呼ぶようにしているし、生徒が教師を「先生」と呼ぼうが「さん」付けで呼ぼうが構わないという風にしている。このような距離の取り方が自然だと僕は考える。
最後に
教科書にそって生真面目真に説明していくと、教科書を離れたことをやる時間が作りだせない。そこで、メリハリをつけて、本質的でないと思われる説明や問題は大胆に飛ばすようになってきた。教材研究の時間をつくるため、小テストは採点時間が短くなるよう工夫したり、宿題点検、補習、追試などに時間を取られ過ぎないようにもしている。これは「不真面目」「不熱心」なのではなく、限られた時間とエネルギーを何に使うかという価値観の問題である。とはいっても、学校という組織の中では、納得できないままにやらざるをえないことも多い。「学校」は、今の社会に適応できる人材を育成するシステムという面もつきまとうので、そことの折り合いの問題もある。実際に今できることは少なくても、教師がきちんとした視点を持っているだけで生徒に伝わるものもある。「木を見て森をみず」にならないよう、広い視野でものごとを考えることこそが教師に求められているのだと思う。
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