苦手なこと

 小学生の時、僕は野球が苦手だった。

 男子の中では、野球はできて当たり前という雰囲気があった。空振りすると「こんな球も打てんの?」とけなされるし、エラーするとバカにされる。ヘマをしたらどうしようという不安な気持ちで頭が真っ白になり、ますますへたくそになってしまうのだった。
 中学ではバスケットボール部に入った。野球はダメだけど、バスケットボールはあやつれそうだという感覚があった。でも、上達の早い子との差がどんどん広がっていき、つまらなくなって途中でやめてしまった。球技に対して苦手意識があったこともあり、でも、体を動かすことは好きだったので、高校では山岳部に入った。山岳部は、僕にぴったりときた。そして、山であれ街であれ、歩くという行為を好きになっていった。今でも、歩いているときに自分が生き生きとしていると僕は感じる。
 先日歩いていて、もしも子どもの時に球技が得意だったら歩くことの楽しみをみつけなかったかもしれないと、ふと思った。よく考えてみると、苦手があったために何かを得るということは他にも色々とあった。ものごとをじっくりと考えるようになったのは、その場でとっさに思いつけずに後から振り返って考えるということが多かったためかもしれない。大学で物理を学ぼうと決めたのは、国語が得意でなかったことと無関係とはいえない。社会や人間に関心を強めたのは、数式に対して強い興味を持てなかったからともいえる。
 最近の僕は、記憶力が衰えてきている。本もさらっと読むと、内容をどんどん忘れて行く。そこで、書かれていることの意味をじっくりと考えながら読むということを、以前よりも意識するようになってきている。覚えることはますます苦手になってきているが、考えは深くなっていると自分では思っている。
 何かを苦手だと認めることは恥ずかしいという気持ちが僕にもある。でも、自分の個性がはっきりとしている部分の背後には、必ず何か苦手なことがあったと思い当たる。であるならば、苦手を恥ずかしがることはないのだろう。と、理屈で考えてみることができたとしても、恥ずかしいという気持ちがゼロになるというわけではないのだが。

<2012年12月「びば!まなびば 2012冬号」>

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