対話の場を創る
─「まなび場」で子ども・若者達とかかわって─■対話■
教員をやめて「まなび場」を始めたときに私が考えていたことは、子どもという容器の中に知識を注ぎ入れていくような“教育”ではなく、対話を通じて、その人の中でいろいろなことがつながりあっていくことが実感できるような“まなび”を追求したいということである。対話の内容として、知的なものに重心をおいて考えていたといえる。“フリースクール”というと“心のケア”というイメージでとらえる人も多いかもしれないが、心の問題に重心をおいて活動を始めたわけではない。
「まなび場」を始めてみると、来てくれた人達の多くは、安心できる居場所が欲しい、人から受け入れられたい、同世代の人とかかわりたい、というようなことを切実に求めていた。これらは、知的な問題以前の、生きていく土台にかかわる課題といえる。自ずと、知的なことがらよりももっと生身の人間全体にかかわることに対話の重心が移ってきた。対話とは本来そういうものなのだろう。
■話し合い■
対話の具体的な形として、頻繁に話し合いの時間を持とうとした時期があったのだが、言語化することが難しかったり、非常に内面的なことが濃密に話し合われた後で「こういう話は疲れるから嫌だ」と言う人がいたり、活発で積極的な雰囲気の話し合いの翌日に欠席者が多いということもあった。正面から向き合わないでも、いっしょに遊んでいたり、いっしょにものを創っていたりする中で、気持ちが通じ合い対話が深まっていくことが感じられることもあり、話し合いという形にはあまりこだわらなくなってきている。今まであまり自分のことをしゃべらなかった人がこちらから何も聞いていないのに自分のことをどんどんしゃべり出す時期もあるようだ。大切なことは相手に関心を持って相手とつきあっていくという姿勢なのだろう。
毎月1回テーマにそって話し合っている「対話の会」でも、ある参加者は「終わったあとの雑談が楽しみで来ている」と言っていた。
一方、「ウインク殺人事件」「UNGAME」等の会話のゲームでは、「話し合い」を嫌がる人でも積極的に参加したり、普段あまり喋らない人が非常に内面的なことを話しはじめたりすることもある。状況によっては、“型”から入った方がうまく行く場合もあるということである。
■多様性■
ここは、異年令(10代前半〜20代前半)の多様な個性の人達(「発達」の面や精神状態の面を含めて)がいる場である。同一年令集団である学校のクラス、同一活動集団である部活動、同じような障害や病気の人が集まる医療機関のデイケア、一対一関係であるカウンセリング、等とは異なる。学校に適応的ではないという点は、ほぼ共通しているが。
私は、中学と高校に17年間勤める中で様々な子ども達と出会ってきた。しかし、「まなび場」を始めてみると、今まで自分が出会って来た人達は皆学校という枠の中に居続けることができた人たちだったということにあらためて気づかされた。さらには、フリースクールのような場にも行けない人もいる。人間はもっと多様だったのである。
はちゃめちゃなことをやる人がいることが、他の人を落ち着けない気持ちにさせることもあるし、場の緊張をといてほっとさせることもある。こだわりの強い人は、つきあうのが面倒臭いと感じさせることもあるし、他人のことを一所懸命考えてくれる人と感じられたり、他の人が見のがしていたことを気づかせてくれる存在にもなる。いっしょに過ごす中で、参加者達も、私も、そういうことにだんだん気づいてくる。散らかす一方で片付けの苦手な人もいるのだが、まとめるのが得意な人がいるように、広げていくのが得意な人もいるのだろう、と考えてみることもある。参加者同士の葛藤は常にあるのだが、そんな中でこそ、人は変化していく。同年令が相手だと緊張してしまうような人でも、年令が離れていると気を使わずにいっしょに過ごせたりする。同質的な集団でないことには意味がある。
■“〜べき”■
“〜べき”という枠組みがあって社会生活が成り立っている面があるのだが、“べき”は個人を抑圧したりそれができない人を責める枠組みにもなる。大人社会の求める“べき”ができず、自己肯定的になれずにいる子どもが少なくない。私は“べき”にはとらわれ過ぎずに、1人ひとりとつきあっていきたいと考えている。これはそんなに簡単なことではなく、既製の“べき”(「学校に行くべき」「勉強すべき」「我慢すべき」「努力すべき」...)にとらわれていないつもりでも、別の“べき”(「自分の頭で考えるべき」「自分のやりたいことを見つけるべき」...)にとらわれていたりもするのだが。
子どもが抑鬱的になって何かをするエネルギーを持てずにいるのに、その子が勉強しているかどうかを心配する人達がいる。そして、勉強することでますますエネルギーが低下していく場合もある。“べき”という発想ではなく、今のその人にとっては、何をすること(あるいはしないこと)がもっとも良いかを、子どもとつきあいながら、いっしょに考えていきたい。
■目的的発想■
「脳を鍛えるゲーム」というものを持ってきた人がいて、みんなでやってみた。推論の力をつけるために大学で開発された、と書かれている。ここでいう“推論の力”は、トランプで遊んでいても十分に身につくものである。トランプの場合は、手札の偶然性に左右される要素が大きいため、遊びとして成り立っている。このゲームの場合、そのような偶然性を排除して、“頭を良くする”という目的のためにムダなく作られている。考える力の差がはっきりと結果に見えてしまうので、みんなすぐに飽きてしまった。
○○体験、○○観察、○○見学など、私達大人の目から見て立派な意味がありそうな行事は、どうも参加者が少ない傾向がある。一方、肝試しやお花見など、たいした目的もなく実施した行事は、参加者が楽しい時間を過ごすことができ、その中で人間関係も深まって、結果的には“意味”があった。
「まなび場」では、月に1回ほどのペースで映画上映を行っている。始めの頃は、私がみんなに見てほしいと思った映画(「17才のカルテ」「今を生きる」「デッドマンウオーキング」...)を上映していた。最近は、参加者が見たい映画(「バトルロワイヤル2」「ソウ」「呪怨」...)を上映するようになってきている。みんなが生き生きとしてくることが、まずは大切だろう。
トランプやダーツで遊んだり、バドミントンやサッカーをやりに公園にでかけるなど、いっしょに楽しく遊ぶことで、気持ちも解放され関係も深まっていく。
■自由■
ここは、がっちりとした枠組みを持った統制された場ではなく、自由度の高い場である。何をやっていいかわからず手持ち無沙汰になったり、会話が途切れたり、大人ならば配慮して言わないようなことを言う人がいたり、ということもある。そんな時には、子ども自身が知恵や優しさやバランス感覚を発揮して、誰かがフォローしたり、みんなを笑わせるようなバカなことを始める人がいたり、ということも起こったりする。その時は気まずい雰囲気で終わり、後日に互いに関係を修正しようとすることもある。
一方、大人の管理がなければ子どもが自由にふるまえるわけではなく、影響力のある子どもが自分のペースに他の子を巻き込むことも起こる。それもある程度は社会勉強なのだが、納得できないまま巻き込まれてストレスを溜め込む人もいる。スタッフは、全体の場をよく見ながら、提案したり、後押ししたり、軌道修正したり、人間関係を取り持ったりすることも求められる。その場合でも、適度な距離感を保つようにしている。
■自立■
中学生は、高校進学を機に「まなび場」を“卒業”していくことが多い。中学卒業生の場合、専門学校や大学への進学あるいは就職という節目が考えられる。進学も就職も希望していない(あるいは、現実的に困難な)人が参加できるような場(アルバイト、ボランティア、自助グループ等)をみつけていくことも課題である。
表面的な“何をやっているか”“どんな進路に進んだか”ではなく、その人の中に生きていくエネルギーが蓄えられているかをよく見ながら、つきあっていきたい。